アゴラ現代文の特徴
- 受験得点力を個個の生徒の受験学力・残された期間に応じた適切な方法・適正な期間で身につけること。
- 思考の方法を技術として身につける。
- 日本語で思考が行われる限り、現代文の良文は、哲学との邂逅でもであり、それらを通じて自らの存在を柔軟に問う。
- 人間そのものを問うことで、自然、歴史、社会、現実への眼差しを聡明にする。
- 国際人たる日本人として必要とされる能力を身につける。
- 真の国際人としてグローバルな出会いの場で相手と自分自身を柔軟にチェンジできる柔軟な思考力を持つ。
- セルフディベートのできる能力を身につける。
指導の根幹
原文主義:原文主義とは大学入試の課題文そのものに真っ向むきあって文章に書かれたあるがままを読解解釈するものである。
原文主義を詳しく説明する前に一般的な現代文学習のポイントについて説明してみましょう。
- 論理的に文章を読む。
- 消去法で選択肢を絞り込む。
- 文中の言葉を使って正確に言い換える。
- 評論用語(概念語)を覚える。
すべて正しいとされる学習です。では間違っているのか?と問われれば必ずしもそうとは言えません。では、私の提唱する方法とどこが違うのか?それは上の項目すべてがひとつの完結した世界から切り取られて生徒の前に提示されている可能性があるから、そう言わざるをえないのです。
原文主義というものはあらゆる断片的知識の独立を否定します。断片は完結した世界の中にあって初めて光彩を放つものです。そのつながりを究明しようというのがそもそもの原文主義のあり方です。俯瞰(ふかん…全体を上から見ること)して、そののちに構成要素を究明します。視野と視点の往復運動こそがこの原文主義の核心です。
本来、「世界」はつながっているものです。何一つとして私達と関係のない存在はありません。今こうしてこの文章を書いてる私も、万物を対象としたありとあらゆる文章も世界とつながっているのです。
心地いい風が吹いてる中、スターバックスのテラスでマグカップのコーヒーを横にパソコンのキーボードを叩いています。
さて、私は何とつながっているのでしょうか?皆さんも私と一緒に考えてみましょう。「私」を他人と違う自己として認識する主体として捉えてみます。ここで、「私」の存在がまず「他者」とつながっていることがわかります。私はここで他者とともに一つの空間の中にあります。ここには購買という商行為を介した者同士がたまたま空間を共有しています。もちろんここは私空間ではありませんから、当然、互いがしかるべきふるまいをすることになります。
以上の文脈(背景)からどれだけのつながりが発見できるでしょうか?カギ括弧はすべて私達とつながっているモノ・コトと考えてください。「他者」とのつながりは最初に述べました。後は目の前にあるモノ・コトから順に考えてみましょう。コーヒーを買ったわけですから「経済」とつながっています。珈琲には値段があります。世界的規模で販売されるわけですからその「時代」の「景気」や「事件」と無関係なはずはありません。コーヒー豆は植物です。「コーヒー栽培者」がまずいます。彼らは「気候」の心配もするでしょう。一人で栽培は出来ませんから他人を雇い「人件費」もかかります。生豆を仕入れた会社が火・熱風で焙煎します。「焙煎者」も存在します。各店には美味しいコーヒーをサービスとして提供するための「スターバックススタッフ」がいます。
「植物」に影響を及ぼす「気候」は「地球」規模の現象です。最近問題となっている「地球温暖化」や「エルニーニョ現象」とも無関係であるはずはありません。「スターバックススタッフ」は愛想がいいです。それは彼らが良い人だからでしょうか?それも否定はしません。しかし根幹にあるのは彼らが「賃金」をもらっているからです。賃金は最低賃金が決まっています。それは「憲法」の生存権(憲法第25条1項)『すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』を具体化した「労働基準法」という「法律」によって定められています。
もし僕が今ここで暑いからと服を脱いで全裸になったら、「警察」がやってきて「刑法」の「公然わいせつ罪」で「逮捕」されます。ここで初めて「公(おおやけ)」の「空間」で期待される、あるいは期待」されない振る舞いが存在しているということで「公」とつながっていることがわかるわけです。
いつの間にか風が冷たくなって来ました。あたりも暗くなって来ました。これこそ私が「自然」とつながっていることの証明です。そして「時間」の経過に驚くわけです。
人は誰でもいつ終えるともしれない有限の生の中で、ただ気づかないだけの無数のモノ・コトとつながって生きています。私たちは何に気づき、どう生きたらいいのでしょう?それこそが私が皆さんとともに歩みたい道の放つ光彩です。
こんなことを想像してみましょう。道のそこここで「かくれんぼ」が行われています。探すのも楽しいし、隠れる方も必ず見つけてもらえるから安心して隠れます。「鬼ごっこ」もそうでしょう。追っかけるのが鬼だから逃げて楽しいのです。もし逆なら追っかける気も失せます。仮にこの2つの遊びが合体して、「かくれんぼ」で隠れているのが「鬼」だったらどうでしょう?誰も探そうとしないし、見て見ぬふりをするでしょう。それでは鬼もつまらないから、たまに出てきて悪さをします。隠れる期間が長ければ長いほど、人が驚くことに味をしめた鬼は、いつまでも隠れて、ある日突然、鬼の形相で恐怖を与えていきます。
この例えはなんだか「現実」に通じると思いませんか。本物の「悪」は悪い顔をしていません。その悪をあぶりだすことにどんな意味があり、その方法は何でしょうかと尋ねられたら、私ならこう答えます。
「苦しむ人が側にいて助けてあげたいからです」
その方法は
「真実を語ることです」「そのための真実を知る思考の方法を学ぶことです」
若いみなさんこそが未来のこの世界の光だと僕は信じています。