私は上江洲 朝也(うえず あさや)といいます。孔子の「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆふべ)に死すとも可也」の頭語・結語でその名になったらしいのですが、私はどちらかと言うと莊子が好きです。またネット上では、その他非公式な場では、西一戸(にし いっと)という名も使っています。西方の極楽浄土に開かれた一つの戸(扉)でありたい。というところからの命名ですがもう一つ意味があって、「英語・算数・国語」で私の苗字になります。
泊小学校、那覇中学校、那覇高校(34期)を卒業して京都の立命館大学法学部に進み無事卒業し(追い出され)ました。京都を選んだ理由は「孤独であることを尊重してくれそうな街」だったということ。立命館を選んだのは、かの大学に縁のある二人の人物の影響です。
一人は高野悦子。「孤独であることこれが私の二十歳の原点である」という遺書を残して幽界に旅立ちました。もう一人は民法の大家にして、滝川事件の主人公、そして立命館の中興の祖、末川博です。
法の理念は正義であり法の目的は平和であるだが、法の実践は社会悪とたたかう闘争である
いまだにこの言葉が私の根底で慢心を揺さぶり続けています。その後は、多くの方々に助けられて何とか生きながらえております。
さてここで、より「アゴラ」を知っていただくために実は「アゴラ」って英語も数学もあるし理科もある。ということを順を追ってご説明したいと思います。
まず、個別指導と個人指導の違い。。。。そして「国語個人指導 アゴラ」のもう一つの姿。についてです。個別指導について親御さんからよくうかがうのは「個人指導だと思って、塾に子供を預けたら、教室に何人も生徒がいて、ブースで仕切られた生徒を一人の先生がぐるぐる回るグループ・授業でした。」そういう意味で集団授業から「個」が「別」れているから「個別」というのです。ですから集団指導とニアリーイコールの関係にあります。但し、生徒間の活発な交流がかけるという意味でグループゼミの良い点はありません。に対して「個人指導」は集団指導と対立する概念です。欠点もあります。講師の質が問われる。(バレる)ということです。さらにビジネスとしては成立しづらいという点もあります。もちろん受講料は高く付きます。高くつくからにはそれなりの価値を持った講師が指導しなければなりません。
「one-to-one lesson」なのですから、人柄も実力も世間の評価もプロデュース力もそして何より期待に応えること。それらを兼ね備えてなければなりません。手前味噌ですがアゴラでは「国語」を土台に「個人」を育てるという理念(クレド)をもとに2012年9月より開講しました。生徒が自ら「こんな先生が必要だ」とメッセージをくれれば「至高(思考)の時」を生徒とともに作れる先生を探し出します。
今アゴラには3人の「メンター(先達)」がいます。
国語は私が25年の指導実績を引っさげて生徒と東大現代文の感動「楽しく」を伝え合います。数学も指導実績40年のカリスマ先生が独特のオーラで「新たな美的数学の世界」を「激しく」指導してくれます。英語もこれまた指導歴25年以上、参考書執筆歴ありの英文法・構文・読解の壮大な構築物を「熱く」解説します。理科も個人指導を行なっています。
要するに「生徒主体のチャンプルー塾」です。具体的に生徒は何をどうしたら良いのか。その答えについて内田樹氏「仕事力について」で含蓄のある文を載せてますので引用させて頂きます。
学ぶ力には三つの条件があります。
- 第一は自分自身に対する不全感。自分が非力で、無知で、まだまだ多くのものが欠けている。だから、この欠如を埋めなくてはならないという飢餓感を持つこと。
- 第二は、その欠如を埋めてくれる「メンター(先達)」を探し当てられる能力。メンターは身近な人でもいいし、外国人でも、故人でも、本や映画の中の人でもいい。生涯にわたる師でなく、ただある場所から別の場所に案内してくれるだけの「渡し守」のような人でもいい。自分を一歩先に連れて行ってくれる人はすべてたいせつなメンターです。
- 第三が、オープンマインド。人をして「教える気にさせる」力です。素直さと言ってもいいし、もっと平たく「愛嬌」と言ってもいい。
この三つの条件をまとめると、「学びたいことがあります。教えて下さい。お願いします」という文になります。私はみなさんのメンターであれればそれでいいです。みなさんの次のメンターへの渡し守ができたらいいと思います。
大きく考えて、大きく育ってください。